2016年御翼1月号その3

今もブルネイ人に尊敬される元ブルネイ県知事:木村 強(つよし)

 

 1942年、第二次世界大戦当時、日本はブルネイを三年間 統治していたその間、ブルネイ県と呼ばれ、国民は日本語教育を課せられていた。日本が統治する以前、1800年からブルネイはイギリスが占領していた。当時のイギリスはジャングルに覆われたブルネイに植民地の魅力を感じておらず、開発作業などを行わなかった。そんな中、日本はイギリスを追い出しブルネイを占領する。日本軍には埋蔵資源が豊富なブルネイを軍港として利用する狙いがあった。
 1942年、ブルネイ県知事に就任したのは、日本軍とは全く違う考えを持った軍人、木村 強であった。木村は、日本の国益だけを考えて占領するのではなく、ブルネイの発展に力を注ぎたいと考えていた。それを実現するために秘書として雇った二十代のブルネイ人青年オマルはとても優秀で、木村を大きく助けた。そんな木村が行った政策が、例えば、ブルネイで天然ゴムが採れる事に注目し、現地に工場を建て雇用を生み出したり、道路、電気、通信などのインフラ整備を進めることであった。しかし、ブルネイを利用したい日本軍からすると、木村の政策はブルネイ人に甘く無駄なモノに映っていた。それでも木村は、「私は他国の人間を奴隷のように扱う事を日本人として恥ずべき事だと考えている。『和をもって貴しと成す』、日本が戦争に勝っても負けても、後の日本人が恥ずかしいと思うような行動をしてはいけない。すべては未来のために」と言って、信念を曲げなかった。木村は目先の利益を求めず、日本人としての品格や誇りを持って接し、助ける事こそが後の日本の国益につながると考えていた。
 (「和をもって貴しと成す」聖徳太子(現在は、存在そのものが疑われている)の言葉とされている。「お互いを尊重しよう」の意。)
 しかし、軍部の命令に背き、軍が石油資源確保のために用意した資金を、ブルネイ現地人のために使うのだから、木村も左遷や投獄される危険性があった。ブルネイの発展に大きく貢献した木村は、県知事に就任してからわずか一年で転勤が決まり、ブルネイを離れることになる。その別れの場では、現地の官僚は人目をはばからず男泣きしたという。苦楽を共にし、一緒に働いてきたブルネイ人秘書オマルも泣きながら、「あなたから学んだようにこの国を立派な国へと成長させます」と誓った。
 二十年後の一九六四年、木村は地元宮城県に戻り、検事の職に就いていた。ある日のこと、東南アジアを飛び回る商社マンが木村に「ブルネイの国王があなたを探しています」と知らせて来た。健康を害していた木村に、国王は軍用機を差し向け、木村は22年ぶりにブルネイに渡り、新しい国王の下へ向かった その新国王こそ、22年前、あの秘書をしていたブルネイ人青年オマルだった。ブルネイ県知事に就任した当時、国王が木村の秘書として推薦したオマルは、国王の実の弟だったのだ。今も多くのブルネイ人は親日家であるという。「彼らの独立につながる手助けをできれば…きっと今後彼らも我々を助けてくれるだろう」との木村の言葉通り、日本とブルネイの関係は今も良好であり、天然ガスは総輸出量の約九割が日本向けであるという。
奇跡体験!アンビリバボー新春!!誰も知らない超スゴイ日本人徹底発屈SP!! フジテレビ2016.1.2放送 より

バックナンバーはこちら 御翼一覧  HOME